【将棋】小池重明:過去最強のアマチュア棋士のアウトローな人生

小池重明とは

まず、名前の読み方。重明は「しげあき」ではなく「じゅうめい」と読みます。

1947年生まれで1992年に若くして亡くなってしまいましたが、私が知る限り過去最強のアマチュア将棋棋士だと思っています。

過去最強のアマ棋士

重明は賭け将棋で生計を立てる「真剣師」でした。当時はアマチュア将棋の強豪クラスの方々がこの真剣師になっていましたが、彼はその中でも圧倒的な強さを誇り、「新宿の殺し屋」「プロ殺し」などとも呼ばれていました。

ただ、将棋は滅法強かったのですが、その私生活は酒と女に溺れ悲惨極まるものだったのです。

そんなギャップも含めて、彼の魅力になっているのかもしれません。

では、詳しい経歴を説明していきます。


生涯

出生〜将棋への道

重明は1947年に愛知県で生まれました。

家庭環境は恵まれておらず、父親は不定職者で博打に明け暮れ、母親は自宅に客を招待する娼婦でした。幼い頃から父親に「博打に強くなれ!」と言われて育った事から、将棋を覚えていったと言われています。

そして、好きな将棋で生計を立てるために、高校を中退して上京。

上野の将棋道場で住み込み従業員として働いていたのですが、夜遊びを覚えキャバレーのホステスに熱を上げてしまいます。そして、なんと勤務先の将棋道場の金を着服してしまい解雇。

酒と女に溺れ更に窃盗

その後、アルバイトをしながら結婚し、子供を授かるのですが出産後数日で死去するという不幸に見舞われます。

この不幸から、仕事も辞め、賭け将棋が行われている将棋道場へ連日出入りするようになっていったのです。


真剣師へ

30代前後、新宿の将棋道場で連戦連勝の記録を作り、程なくして「新宿の殺し屋」と呼ばれ皆から恐れられるような存在になります。

この当時、大阪では加賀敬治というもう1人の最強真剣師がいたのですが、2人は周囲からの要望に応え通天閣の将棋道場で対局(1979年)。2日がかりの勝負で7戦7勝と互角に渡り合ったと言われています。

この対局を機に、2人は名実ともに最強の真剣師と呼ばれるようになります。なお、加賀はこの対局で重明を恐るようになり、「もう一度やったら勝てる自信がない」と語ったようです。

最強の真剣師誕生

しかし、生活の方は更に乱れていき、夫人とは別居の末に離婚し、その反動で連日連夜泥酔するまで飲み歩くようになります。

そんな重明を見かねた知人から「アマチュア将棋大会に出てみないか」と勧められます。優勝すれば賞金が出ると言われ、重明は俄然やる気になり将棋大会への出場を決意します。


アマチュア界の頂点へ

軽い乗りで出場した将棋大会で、何と「アマチュア名人」のタイトルを2期連続で獲得します。
全日本アマチュア名人戦(日本将棋連盟主催)の1980年、1981年度名人
全日本アマチュア名人戦(歴代優勝者)

アマチュア名人獲得(2期連続)

重明の名は全国に轟き、雑誌の企画で大山康晴名人と角落ちで対局するまでになります。そして・・・、この対局になんと勝ってしまうのです。

プロ永世名人 大山康晴を破る!

これは当時、とんでもないニュースとなりアマチュアからプロへの編入の話が持ち上がります。しかし、注目されると同時に過去の素行の悪さが表面化してしまい、プロ編入は日本将棋連盟から却下されてしまいます。

これにはさすがの重明も相当なショックを受け、約2年間将棋の表舞台から身を引くことになるのです。


団鬼六との出会い

そんな重明を表舞台へ引き戻してくれたのが作家の団鬼六です。団はアマチュア棋士として強豪であり、この当時「将棋ジャーナル」という雑誌の発行までしていました。

団は重明の強さに惹かれ、活動の「後援会長」となるのです。

そして団の企画で、何人ものアマチュアのタイトルホルダーと対戦するのですが、ことごとく勝利をおさめます。そして、ついに当時のアマ名人(田尻隆司)にもあっさりと勝利。

重明は化け物的天才だ!

団は、この当時、重明をこのように評しています。

その後、重明は団の専属運転手として働きながら、知人の焼肉店の店長にもなりますが、わずか半年後に不倫相手の女性を連れて失踪してしまうのです。

不倫女性と失踪

そして、またもや音信不通に・・・。


晩年

しばらくはトラック運転手として運送会社に勤務していたようですが、40代に入ると重度の肝硬変を患い入院する事になります。

重度の肝硬変発症

この時期、重明は自ら団に連絡を取り、「先生、怖い。死にたくない!」と泣きながら助けを求めたと言われています。それを聞いた団が病院へ駆けつけると、重明は極端に痩せ細り、以前のオーラは消えてしまっていました。

「また将棋をやりたい!」と重明は団に懇願します。

そんな重明を見て、団は再度将棋の対局の場を用意してあげるのです。相手は当時のアマチュア界のホープと評された天野高志。天野は当時、竜王戦6組にアマチュア枠で出場し、プロに3連勝するなど最強棋士と言われていました。

当時のアマ最強の天野に2連勝

そう。あっさり勝ってしまったのです。

この時、重明は病気の苦痛に耐えながら団にお礼を述べ笑顔を見せたと言われています。

そして、天野との対局の数日後、病院に戻った重明は再び吐血して容態が急変し、ベットの上で体に繋がれたチューブを自ら引きちぎって死亡してしまいます。

病院で自殺

享年44歳(1992年没)。あまりにも若すぎる死でした。


死後

戒名
「棋勝院法重信士」

その後、団は重明の破滅的な生涯を「真剣師小池重明」として1995年に発刊。再度、世の中に彼の名前が知られる事になりますが、それは将棋ファンのみに限られ一般の方々に広く認知される事はありませんでした。

ちなみに、重明がプロ棋士と対局した通算成績は下記の通りです。

<対プロ棋士 対局成績>
◆通算成績:15勝11敗 勝率0.577
◆平手成績:10勝8敗 勝率0.556
◆駒落ち成績 :5勝3敗 勝率0.625

プロ相手にこの成績は驚異的!やはり天才だったのでしょう。


TV番組での特集

今からかなり前、1998年に日本テレビ「たけし・さんま世紀末特別番組!!世界超偉人111人伝説」という番組で小池重明のことを紹介した事がありました。

彼の生き様が非常に上手く「短編ドラマ化」されています。

<前半>

<後半>


実際の映像

何と、小池重明の実際の動画が公開されています。昭和63年に行われた将棋大会での様子。

この大会でも当然のように優勝していますが、この時、賞金と商品を渡したのが当時五段の羽生善治先生というのも興味深いですね。

なお、羽生先生は小池重明について、後に団鬼六との会談でこのように語っています。

<羽生先生 談>
小池さんの将棋を見て実力的には相当なものを持っている事を感じましたね。
ただ将棋の作り方というのがプロの眼から見てどう評価していいのかわからないんです。不可思議な魅力を感じましたね。一局、戦っておきたかった。


私も将棋が好きで、日頃から良く指しているのですが、コツコツ勝率を重ねてきた甲斐があり、ついに2017年12月に日本将棋連盟から「初段免状」を頂きました。

この時の様子を下記の記事にまとめていますので、同じように初段を目指されている方は参考にして下さい。